犬や猫は、ビタミンCを食事から摂らなくても、通常は壊血病にはなりません。
その理由は、体内でビタミンCを作ることができるからです。
では、なぜ人間はビタミンCを作れないのでしょうか?
実は、ここには私たちの遠い祖先と、進化の歴史が関係しています。
そして興味深いことに、私たちのDNAには、かつてビタミンCを作っていた時代の「痕跡」が残されているのです。

人間だけが作れないわけではない
まず、少し意外な事実があります。
ビタミンCを作れないのは、人間だけではありません。
多くの哺乳類は、体内でビタミンCを合成することができます。
一方、人間を含む類人猿や一部の霊長類、モルモットなどでは、ビタミンCを作る能力が失われています。
さらに、進化の系統が異なる動物でも、ビタミンC合成能力を失った例が知られています。
つまり、
「人間だけが特別にビタミンCを作れなくなった」
というわけではないのです。
では、なぜ作れなくなったのでしょうか?
「犯人」はGULO遺伝子
ビタミンCを体内で作るには、いくつもの化学反応を順番に進める必要があります。
その最後の段階で重要な働きをするのが、
GULO遺伝子
です。
GULO遺伝子は、ビタミンC合成の最終段階を担う酵素、L-グロノラクトンオキシダーゼ(GULO)を作るための設計図です。
ところが、人間ではこの遺伝子が正常に働きません。
ここで重要なのは、
「人間にはビタミンCを作る遺伝子がない」
というわけではないことです。
より正確には、
「人間には、ビタミンCを作るための機能するGULO遺伝子がない」
ということです。
かつては正常に働いていたGULO遺伝子に、進化の過程で変異が蓄積し、現在では酵素を作る機能を失っています。
そして驚くことに、その「壊れた遺伝子」の痕跡は、現在の私たちのDNAにも残っています。
このように、かつて働いていた遺伝子が変異によって機能を失ったものを、偽遺伝子(pseudogene)と呼びます。
私たちのDNAには、遠い祖先がビタミンCを作っていた時代の「遺伝子の痕跡」が残されているのです。
では、なぜ遺伝子は「壊れた」のか?
ここからが、進化の面白いところです。
ビタミンCは私たちの生命維持に必要な栄養素です。
それなのに、なぜその合成能力を失ってしまったのでしょうか?
一つの重要な考え方は、
「食事から十分なビタミンCを得られる環境では、作れなくなっても大きな不利益にならなかった」
というものです。
ビタミンCを作る能力が失われた祖先も、食物からビタミンCを摂取できていれば、すぐに生命が危険にさらされるわけではありません。
そのような環境では、GULO遺伝子に偶然変異が起こっても、それが生存や繁殖に大きな不利益を与えなければ、その変化が集団の中に残ることがあります。
ただし、
「果物をたくさん食べていたからGULO遺伝子が壊れた」
と単純に説明できるわけではありません。
遺伝的浮動など、複数の進化的な要因が関係した可能性が考えられています。
そして、なぜこの遺伝子が失われたのかについては、現在も完全な答えが出ているわけではありません。
これも進化の興味深いところです。
ビタミンCを作れないことに「メリット」はあったのか?
さらに興味深い仮説もあります。
ビタミンCを自分で合成する過程では、化学反応に伴って過酸化水素などが生じます。
そのため、
「ビタミンCを自分で作らなくなったことが、何らかの進化上のメリットにつながったのではないか」
という可能性も研究されています。
また、ビタミンC合成に必要なエネルギーを節約できたのではないか、という考え方もあります。
しかし、ここはまだ仮説の段階です。
「人間がビタミンCを作れなくなったのは、メリットがあったからだ」と断定できるだけの証拠はありません。
むしろ、
「食事から十分なビタミンCを得られる環境では、作れなくなっても大きな不利益にならなかった」
という説明が重要な考え方の一つです。
それでも、すぐにビタミンC不足になるわけではない
ここで、もう一つ大切なポイントがあります。
人間はビタミンCを作れません。
だからといって、
「一日ビタミンCを摂らなかったら、すぐに壊血病になる」
というわけではありません。
体内にはある程度のビタミンCが蓄えられています。
また、摂取量が減ると尿への排泄を抑えるなど、体はビタミンCをできるだけ節約しようとします。
そのため、数日程度の摂取不足で、いきなり壊血病になるわけではありません。
問題になるのは、ビタミンCをほとんど摂取できない状態が、何週間、何か月と長期間続くことです。
そして、ここで大航海時代の物語につながってきます。
人類は「自分で作れない体」のまま、長い航海を始めた
人間がビタミンCを作れなくなったのは、大航海時代よりはるか昔のことです。
それまでの生活では、食物からビタミンCを摂取することで、大きな問題なく暮らすことができました。
ところが人類は文明を発展させ、ついには何か月にも及ぶ長距離航海を始めます。
船の上では、新鮮な野菜や果物を十分に食べることができません。
数日なら問題ありません。
しかし、それが何週間、何か月と続くと、話は変わってきます。
体内のビタミンCが徐々に減少し、やがて欠乏状態に陥ります。
そして現れたのが、
壊血病
でした。
「進化」と「文明」のすれ違い
考えてみると、少し不思議です。
人間がビタミンCを作れなくなったこと自体は、何百万年もの進化の歴史の中で大きな問題にはなりませんでした。
ところが、人類が生活環境を大きく変えたことで、その特徴が突然、病気として姿を現します。
つまり壊血病は、
人間の体の進化と、文明によって生まれた新しい生活環境との「すれ違い」
から生まれた病気とも考えられます。
進化の中では問題にならなかった体の特徴が、人間の生活様式が変わったことで「弱点」として表面化したのです。
大航海時代の船乗りたちが苦しんだ壊血病は、その象徴ともいえるでしょう。
まとめ ― 私たちのDNAに残る、遠い祖先の記憶
人間は、体内でビタミンCを作ることができません。
その理由は、ビタミンC合成の最終段階を担うGULO遺伝子が機能を失っているためです。
そして、その「壊れた遺伝子」は消えてしまったのではなく、偽遺伝子として私たちのDNAに痕跡を残しています。
なぜこの遺伝子が失われたのか。
その答えは、現在でも完全には分かっていません。
しかし、そこから見えてくるのは、私たちの体が決して「完成された設計図」ではないということです。
私たちの体には、遠い祖先から受け継いださまざまな特徴が残されています。
その中には、現在の生活ではほとんど意識することのないものもあれば、環境が変わることで病気として現れるものもあります。
進化が作った体と、文明が作った生活。
その間に生じた「すれ違い」の一つが、壊血病だったのかもしれません。
私たちが毎日何気なく口にしている野菜や果物にも、そんな長い進化の物語が隠されています。
おわりに
なぜ人間はビタミンCを作れないのか?」
この素朴な疑問をたどっていくと、
ビタミンC → 遺伝子 → 進化 → 食生活 → 壊血病 → 医学史
という、一見別々に見える話が一本につながってきます。
医学を「病気の知識」だけでなく、その背景にある進化や歴史まで含めて見てみると、私たち自身の体が、長い時間をかけて形作られてきた存在であることが分かります。
私たちのDNAには、遠い祖先の「過去」が今も残っているのです。
