「医師ストで死亡率下がる」は本当? 医療界に伝わる「奇妙な統計」の正体

はじめに:医療界に伝わる「奇妙な統計」の正体

インターネットやSNSを見ていると、時折こんな刺激的な言葉を目にすることがあります。「過去に医師がストライキをした際、その地域の死亡率が下がった。だから医療は不要だ」一見すると衝撃的な主張ですが、実は1970年代のイスラエルや米国、コロンビアなどで実際に報告された数値に基づいています。しかし、医学的・統計学的な視点でこの裏側を紐解くと、そこには「数字のトリック」とも呼べる要因が隠されています。過去の主要な医師ストライキとその実態、そして「医療の逆説」の正体を、信頼できる研究に基づいて解説します。

過去の主要な医師ストライキとその実態

1. 1976年 米国ロサンゼルス郡:最もよく引用される「低下」事例

状況: 医師が医療過誤保険料の高騰に抗議し、約5週間(一部で「slowdown」)にわたり予定診療・手術を大幅に制限。
現場の様子: 救急医療・緊急手術は維持され、完全な医療停止には至りませんでした。
統計の正体: 期間中の死亡率が約18%低下したと報告され(James, Am J Public Health 1979;69:437-443)、これが独り歩きしています。しかし、これは主に予定手術(elective surgery)の停止により、手術に伴う一定の合併症リスクが「一時的に回避」された結果に過ぎません。
決定的な結末(リバウンド): ストライキが終了し、手術が再開されると事態は一変します。滞っていた手術が一斉に行われたことで、死亡率は平時の水準を大幅に上回る急上昇を記録しました。最終的に、低下分と上昇分を通年で合算すると、死亡率の変化は相殺されています。つまり、**「医療が不要だった」のではなく、「死のタイミングが数週間後ろにズレただけ」**であったことが、詳細な追跡調査によって証明されています(Roemer, Soc Sci Med Part C 1981;15:209)。

2. 1976年 コロンビア(ボゴタ):52日間の長期スト

状況:社会保険庁所属医師が労働条件改善を求め、52日間ストライキ。
現場の様子:外来・予定入院は停止されたが、救急医療(Emergency Care)は例外として継続。
死亡率の推移:スト期間中に死亡率が35%低下したと報じられましたが、ストライキが終了した直後に、死亡率は即座に以前の水準へと戻っています。 
統計のトリック: ロサンゼルス同様、これも「医療が人を殺していた」証拠ではなく、リスクの高い処置が一時停止され、死のタイミングが後ろにずれたに過ぎません(Cunningham et al., Soc Sci Med 2008;67:1784)。
隠れた犠牲: 52日間という長期の空白は、救急以外の適切な治療機会を奪いました。死亡率が元の水準に戻ったということは、「医療を止めて救われた命」など存在せず、再開後の医療が「命の借金」を必死に返済した結果なのです。

1976年のコロンビア・ボゴタにおける医師ストライキの現場

3. 1983年 イスラエル(エルサレム):死亡証明書分析

状況:医師の4ヶ月近いストライキ(給与・条件改善要求)。
現場の様子:救急・分娩・透析などは維持。
結果:死亡証明書に基づく分析で、スト期間中および直後に死亡率の有意な増加はなし(Slater et al., Lancet 1983;2:1306)。一部報道で低下が言及されたが、全体として変化なしと結論づけられています。

理由1:重症患者の「場所」が移動しただけ(搬送バイアス)

ストライキが行われる際、すべての医療が止まるわけではありません。

  • 救急部門(ER)は動いている: 命に関わる重症患者や交通事故などの緊急対応は、ストライキの対象外として維持されることがほとんどです。
  • 搬送先の変更: 重症患者はストに参加していない基幹病院や他地域へ搬送されます。
  • 真実: 自地域の数字が減っても、隣の地域の病院に負担とリスクを押し付けているだけであり、死の場所が移動したに過ぎません。

理由2:「予定手術」の延期による一時的な変動

ストライキでまず中止されるのは、命に直結しない「予定手術(緊急性の低い手術)」です。

手術には、どれほど万全を期しても一定の合併症や術後リスクが伴います。ストライキ期間中にこれらの手術が一時的に「ゼロ」になれば、その期間の統計上の死亡率は当然下がります。

しかし、これは**「リスクを後回しにしている」**だけに過ぎません。手術を延期したことで病状が悪化し、数ヶ月後の予後に悪影響を及ぼすケースは統計には現れにくいのです。

理由3:慢性疾患の悪化には「タイムラグ」がある

私たちクリニックが主に行う生活習慣病の管理や内視鏡によるがん早期発見の効果は、スト直後の1ヶ月データには反映されません。

  • 血圧・糖尿病薬の中断
  • 早期がんの見逃し

これらの影響で死亡率が跳ね上がるのは、ストライキが終わってから数年後のことです。短期的な「数字の低下」だけを見て「医療はいらない」と結論づけるのは、非常に危険な飛躍だと言えます。

【最新の事例:韓国での教訓】

近年、韓国での医師不足・離職騒動(2024年2月開始)では、過去の「ストで死亡率低下」という楽観論とは逆の現実が明らかになっています。
(Kim et al. Front Public Health 2025;13:1718795)では、

  • 入院患者数と医療費の大幅減少:
    • 入院患者数約9.5%減少、医療支出40%減少。
    • 院内死亡率・30日再入院率に有意変化なし。
      理由:病院が高リスク患者の受け入れを制限し、安定患者のみ診療したため(選択バイアス)。
      実際には、
    • がん手術遅延による進行
    • 残された医師の過重労働
      といった「目に見えない犠牲」が積み重なっています。

【逆に、医療供給が本当に途絶えたとき:死亡率が上がる現実】

ストライキのように「一部を維持しながら」ではなく、医療が本格的にパンク・供給途絶した場合には、逆に死亡率が明確に上昇します。代表的な事例を挙げます。

1. COVID-19パンデミック時の病院逼迫(米国ほか、2020-2022年)
ICUベッド使用率が75%を超えると、2週間後に全国で約12,000人の追加過剰死亡が発生すると予測され、100%超では約80,000人の追加死亡が見込まれる(French et al., MMWR 2021;70:1613)。
原因はCOVID患者の殺到による非COVID患者(心筋梗塞・脳卒中・がんなど)の治療遅延・拒否。
結果、世界的に非COVID関連の過剰死亡が急増し、「医療アクセスの崩壊」が命を奪った実例として広く分析されています。
まるで「救急車が来ない」「手術が待てない」状態が、静かに多くの命を失わせたのです。

2. 薬剤供給不足の事例:ノルアドレナリン(米国、2011-2012年)
敗血症ショック治療に不可欠なノルアドレナリンが全国的に不足した期間、病院での院内死亡率が3.7%ポイント上昇しました(Vail et al., JAMA 2017;317:1433)。
代替薬を使っても効果が劣り、患者の予後が悪化したことが原因です。
「1本の注射薬が足りない」だけで、命が助からなくなる現実を象徴する事例です。

日本でもCOVID-19期に受診控えや病院負担増で、心疾患・がんなどの遅延治療が懸念され、非COVID死亡への影響が指摘されました(厚生労働省・各種疫学研究)。
これらの事例が示すのは、「医療の線」が本当に途切れると、短期的な統計トリックではなく、確実に命が失われるということです。

【究極の検証】壁が証明した「医療と寿命」の真実

短期的なストライキの場合には、周辺地域への患者搬送や統計のズレといった「ノイズ」が混じります。では、**「ノイズが一切入らない状況」**で医療の質の差が寿命や死亡率にどう影響するかを比較したらどうなるでしょうか?その答えは、戦後分断された東西ドイツにあります。同一の民族・文化・遺伝的背景を持つ人々が、ベルリンの壁によって物理的に分断され、人の移動がほぼ不可能だった40年間の「社会実験」です。

  1. 分断期の寿命・死亡率格差
    1950年代初頭は東西で平均寿命に大きな差はありませんでした。しかし、1970年代以降、西ドイツで高度な診断技術(内視鏡・心臓カテーテルなど)、新薬(高血圧・脂質異常症治療薬)、予防医療システムが急速に普及したのに対し、東ドイツではこれらの導入が遅れました。
    結果、1980年代後半には東ドイツの平均寿命が西ドイツより男性で約3歳、女性で約2歳短くなりました。特に**循環器疾患(心疾患・脳血管疾患)**による死亡率が東側で高く、これが格差の主な要因でした(Vogt et al., Demography 2017;54:1051-1071)。
  2. 格差の主な原因
    • 生活習慣の違い:東ドイツでは喫煙率が高く(特に男性)、これが循環器死亡の大きな部分を説明します。
    • 医療水準の差:東ドイツも医師数は十分でしたが、最新機器・医薬品・早期発見・治療システムの不足が、回避可能死亡(医療で防げたはずの死亡)を増やしました。研究では、循環器疾患の医療介入可能な部分が東側で顕著に高かったと指摘されています(Nolte et al., Soc Sci Med 2002; Grigoriev et al., Eur J Popul 2017)。
      → 医療アクセスの質が寿命に直結した典型例です。
  3. 壁崩壊後の急速な改善
    1989年の壁崩壊と1990年の再統一後、東ドイツ住民は西側の医療システム(保険制度統一、新薬・機器の即時導入)にアクセス可能になりました。
    結果、東ドイツの平均寿命は急速に延び、女性ではほぼ完全に西側に追いつき、男性でも大幅に縮小しました。この収束は、生活習慣改善(喫煙減少)や経済成長に加え、質の高い医療へのアクセス向上が大きく寄与したと分析されています(Grigoriev et al., Eur J Popul 2017)。
    再統一からわずか10〜15年で格差が劇的に解消されたことは、医療の「線」(継続的な診断・治療・予防)が寿命に与える影響の大きさを示す強力な証拠です。

この東西ドイツの歴史は、ストライキのような短期的な「点」の混乱ではなく、長期間にわたる医療水準の差が、死亡率と寿命に明確な影響を与えることを教えてくれます。医療が本当に途切れたり質が低下したりすると、数年~数十年単位で取り返しのつかない結果が生じるのです。

結論:医療の本質は「点」ではなく「線」にある

「医師ストライキで死亡率が下がる」という話は、特殊な条件下での短期的な統計現象に過ぎません。その裏には「死のタイミングの先送り」や「周辺地域への負担押し付け」といった数字のトリックが隠れています。

しかし、東西ドイツの歴史が証明したように、医療というインフラが本当に途絶えたり、質が低下したりすれば、それは数年単位の寿命の短縮という取り返しのつかない結果をもたらします。

医療の本質は、救急のような「点」の対応だけでなく、日々の診療・検査を通じて健康を維持する**「線」の継続**にあります。

当院(町田北口消化器・内視鏡内科クリニック)では、この「線」を途切れさせないよう、内視鏡検査や生活習慣病管理を通じて、皆様の10年後、20年後の健康を守り続けます。

大腸内視鏡